三宅一生(イッセイミヤケ)は1938年、広島県に生まれる。多摩美術大学を卒業後、渡仏。
1945年8月6日、爆心地から4キロの東雲小学校の教室で原爆の閃光を見る。「今でも目を瞑れば浮かんでくる、嫌な色だ」 爆心地から2.5キロの自宅で大やけどを負った母は4年後に亡くなる。幼少期から優れた美的センスを発揮、一貫して美術部に所属。焼け野原から復興する広島の街、特に高校の近くにあった丹下健三設計の平和記念公園やイサム・ノグチが設計した平和大橋のデザインに感銘を受ける。
在学中からすでに彼の行動力は際立ち、装苑賞の第10回(1961年)、第11回(1962年)と2年連続で現在の佳作にあたる賞を受賞、頭角を現した。第1回コレクションは1963年に発表した「布と石の詩」。しかしファッションを独立したデザイン社会と認知しない当時の日本のファッション環境に苛立ち、卒業後第2回コレクションを発表した後、フランス・パリに渡り、1966年ギ・ラロッシュのアシスタントとなる。バレンシアガの元で働くことを望んでいたものの、1968年にバレンシアガが引退したため、その一部を引き継いだジバンシーでアシスタント・デザイナーに就く。
69年、ニューヨークへ渡り、70年に「三宅デザイン事務所(MDS)」を設立。71年、「ISSEY MIYAKE」としてニューヨーク コレクションを発表。73年、パリに戻り、プレタポルテ・コレクションを発表。
日本の和服に代表される「一枚の布から(A Piece of Cloth)」という発想による、衣服と身体の関係に迫る表現手法は、「動くオブジェ」とも呼ばれ、国際的な評価を得る。
84年、第2回毎日ファッション大賞を受賞。88年、「プリーツ・プリーズ(PLEATS PLEASE)」と銘打ってプリーツのラインを発表。89年、第7回毎日ファッション大賞を受賞。
98年、フランス・リヨン大学名誉博士号を受賞。
99年よりチーフデザイナーを滝沢直己に交代。2000年、日本芸術大賞、ジョージ・ジェンセン賞、第18回毎日ファッション大賞・ミレニアム記念賞を受賞。
2008 S/S より、ブランド「ミー」を「ミー(me ISSEY MIYAKE)」に名称変更。
現在、イッセイ・ミヤケグループ傘下には「ズッカ(ZUCCa)」、「ツモリチサト(TSUMORI CHISATO)」、「スナオクワハラ(sunaokuwahara)、「ネネット(Ne-net)、「メルシーボークー(mercibeaucoup,)、「ファイナルホーム(FINAL HOME)」、「プランテーション(Plantation)」等がある。
アーペーセー アレキサンダーマックイーン イヴサンローラン イッセイミヤケ
ヴィクター&ロルフ ヴェロニクブランキーノ エルメス クリスチャンディオール
コスチュームナショナル コムデギャルソン ジバンシー シャネル ジャンポールゴルチエ
ジュンヤワタナベ ズッカ ステラマッカートニー セリーヌ バレンシアガ
フセインチャラヤン ヘルムートラング ポール&ジョー マルタンマルジェラ ヨウジヤマモト
ラフシモンズ ルイヴィトン ルシアンペラフィネ ロエベ エミリオプッチ グッチ ヴェルサーチ
フェレ アルマーニ ジルサンダー ドルチェ&ガッバーナ ニールバレット フェンディ
プラダ アトウ アンダーカバー ケイタマルヤマ シアタープロダクツ ジョンローレンスサリバン
タイシノブクニ ドレスキャンプ ナンバーナイン ミハラヤスヒロ ミントデザインズ